−旧約聖書物語−


1. 旧約聖書とは

旧約聖書は39の書物から出来ており、人類の歴史と神様の関わりが語られています。旧約聖書はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典となっており、現代社会における人々の生活の精神的な支えとなっています。そして、考古学による発掘によって旧約聖書における多くの物語、記述が神話や伝説ではなく実際に存在した史実であることが明らかにされつつあります。天地創造に始まる旧約聖書の記述は人類の知恵では計り知れない神様の英知と御業を私たちに教えてくれます。そういう意味では、旧約聖書は神様から人類への大きなプレゼントと言えるのではないでしょうか。次回から旧約聖書をすこしづつご紹介していきたいと思います。


2. 天地創造

旧約聖書は有名な天地創造の話で始まります。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」混沌とした無形の状態にただ神の霊のみが存在する状態から、神様は6日間でこの世界を造り、すべての作業を終えた後7日目に休まれた、と書かれています。すなわち、

第一日目光とやみを造られ、昼と夜と名づけられた。
第二日目大空と水を分け、大空を天と名づけられた。
第三日目海から陸を造り、草木を生えさせられた。
第四日目太陽と月と星を造られた。
第五日目水に住む生物と鳥とを造られた。
第六日目地上の生物を造られた。また、神様は自分の形にかたどって人を創り全ての生物を治めさせた。
第七日目この日を祝福し、聖別し、休息された。

私たちは天地創造の仕上げとして、神様の形を模して創造されました。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこでひとは生きた者となった。」まことに私たちは死んでちりに帰るはかない存在ではありますが、私たちは神様に愛され神様の霊を宿す存在でもあるのです。神様が創造の業を終えて安息された日(土曜日)は聖なる安息日と呼ばれ、日々の仕事を離れ神様とともに過ごす日と定められています。安息日は日々の煩いから心を解き放ち、本来の自分と神様との関係を取り戻す貴重な日でもあるのです。


3. 罪の始まり

神様のかたちにかたどって造られた最初の人(アダム)は、またすべての生き物の統治者として、また地上に造られた楽園であるエデンの園の管理者として、神様の教えに忠実でありました。神様はまた、アダムの助け手としてエバを創造されました。二人は神様の教え(律法)と調和し、その将来と幸福は約束されていました。さて、神様はこの二人に一つの約束を守ることを要求されました。それは、エデンの園にあるすべての木のうち中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけない、それを取って食べると死ぬであろう、というものでした。神様は慈愛に満ちた全世界の創造主であり、万物を支配するかたです。従って、アダムとエバが決して善悪を知る木の実を食べられないように手配しておくことも出来たのでした。しかしながら、神様の最高の創造物である人には、神様の愛と律法を理解し、神様に服従することを望まれたのでした。残念ながら人類の祖先であるアダムとエバは神様の期待にこたえることは出来ませんでした。へびに身をやつしたサタンは巧妙にエバを誘惑し、神様に対する不信を起こさせます。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。(創世記3章4節−5節)私たちは、自らの欲と好奇心を満足させるために本当に大切な愛の律法を忘れてはいないでしょうか。アダムとエバの犯したたった1つの罪が人類全体を神様から遠ざけ、その救いの道を困難なものとしたのでした。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。……あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」(創世記3章17節−19節)こうして、人はエデンの園を追放され死を免れないものとなったのでした。神様に仕える天使たちのなかで第一人者であったサタンは創造主の愛と律法に対して反逆し、他の多くの天使と共に人類をもその支配下に置くことに成功しました。しかしながら、神様はこのような罪と共に生まれた私たちをも愛し哀れみ、罪を取り除く道を備えてくださいました。それが、神のひとり子であり罪無き身でありながら人類のために犠牲となられた主イエスキリストなのです。皆さん、イエスが誕生する700年も前に書かれた旧約聖書のイザヤ書第53章をぜひ読んでみてください。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く子羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、誰が思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ書第53章)


4. カインとアベル

さて、エデンの園を追い出されたアダムとエバはカインとアベルという兄弟を授かります。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。アダムの家族は神様に不信を抱き、その戒めに従わなかった罰として永遠の命を失ったのですが、神様はそのような哀れな人類を愛し、救いの道をも備えられました。彼らは自らの罪を悔い、神様への全的な信頼を表明するため、羊の群れの中から生まれた初子と地の産物の初穂を神様に捧げることが要求されました。カインとアベルはともに祭壇を築き、主なる神様に供え物を捧げます。しかしながら、主は天から火を降らすことによってアベルの捧げ物を喜ばれますが、カインの供え物は顧みられませんでした。平等に人を愛される神様がなぜ二人をこのように異なって扱われたのでしょうか。主の扱いに大いに憤ったカインに対して神様は御言葉をおかけになります。

「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しいことをしているのでしたら、顔を上げたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕いも求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」創世記第3章6−7節

カインは神様の勧告にもかかわらず腹立ち紛れに大事な弟のアベルを殺してしまいます。神様が二人に異なる対応をなさったのには理由がありました。アベルは罪によって堕落した人類に対して救いの道を備えてくださった神様に感謝し、自らの罪を告白し、悔い改める場として祭壇を設け、神様の要求どおり子羊と地の作物を供えました。しかし、カインは神様の人類に対する愛と教えを理解しませんでした。彼は人類に対する神様の扱いを不当だと考え、自分の功績として自らが収穫した地の産物のみを捧げました。正しい行いをして神様に認められた弟をカインは憎み、更に恐ろしい殺人の罪まで犯してしまうのでした。自分の欲望とプライドを満足させるために、また、自分が誤っているがゆえに正義を憎むかたくなな心から、同様な事件が起こることを私たちは良く知っています。私たちの心は弱く、待ち伏せる罪を治めることのなんと難しい事でしょうか。すなわち、私たちは生まれながらに罪人なのです。

「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるだろうか。」ローマ人への手紙第7章21−24節人は人生における成功を自分の手柄と思い、誇り高ぶります。しかし私たちはいくらこの世に宝を積んでも死とともにちりに帰るはかないちっぽけな存在なのです。このような私たちに対して、神様は心から救いと永遠の命を求める機会を与えられています。

「主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、へりくだる者を公儀に導き、へりくだる者にその道を教えられる。主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。」詩篇第25編8−10節

"世の罪を取り除く神の子羊"とよばれたイエス・キリストは神様の御子でありながら人類の罪をあがなうために自らを犠牲にされました。アベルが神様に対して愛と砕かれた心をもって供え物を捧げたように、私たちの罪をあがなうために自らを捧げられた主イエスを信ずる信仰によって、私たちは神様の義と永遠の命に至ることが出来る、と聖書は教えています。

「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」ヨハネによる福音書第6章63節


5. ノアの洪水

神様が最初に創造されたアダムから数えて9世代目にあたるノアの時代になると、地上には人類が増え始め、また彼らは神様の教えから遠ざかりました。天地を創造された主を崇めるのではなく、偶像を礼拝し、高慢な心と欲望の赴くままに、多くの悪事が世にはびこりました。

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。創世記第6章7−7節

神様は信仰に篤い人であったノアに、やがて来るべき未曾有の暴風雨と大洪水、そして地上のすべての生物が滅ぼされるという御計画を語り、いとすぎの木で巨大な箱船を建造し、彼の家族およびすべての生き物のつがいとともに、避難するようお命じになりました。ノアはまだ見ぬ大災害と神様の契約を信じ、多くの人々に語り、彼らをも救おうとしました。しかしながら、神様から遠く離れ、日常生活における欲望の追求しか眼中にない人々は、神様の警告を無視し、ノアを嘲笑しました。しかし、ノアとノアの家族および動物たちが箱船に乗り込みその戸口が閉じられてから7日後、「大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は40日40夜、地に降り注いだ」創世記第7章11-12節。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱船を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。」へブル人への手紙第11章7節

皆さんは神様が今の時代の私たちに同じ警告をされているのをご存知でしょうか。聖書はイエスキリストの御再臨が近いこと、そしてそれに前後して未曾有の大災害が待ち受けていることを告げています。私たちは今こそ悔い改めて神様に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

「しかし、その時に起こる患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲にのって来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音とともに御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。……だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」マタイによる福音書第24章29-42節

つづく...


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