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ともしび

『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。』 (旧約聖書詩篇より)
- 今の時代を照らす聖書のメッセージ -



(Vol.12 - 1999.06.12)

回、『国民総背番号制』のことを書いたが、今回はその続き▼国民全員に番号が振られ、それが一元的に管理されるようになったとしたら、いったいどんなことが起こるのだろうか。いろいろと便利なことがあるだろうということは、容易に想像がつく。実際、便利になるからこそこういった制度を導入しようとしているわけである。では、問題点はないのだろうか▼番号ひとつでその人の名前や住所、生年月日はもちろんのこと、職業やこれまでの学歴、職歴、さらには家族構成等が明らかになるわけである。さらに、もし、この番号制度がたとえばクレジットカードの本人確認や、その他のさまざまな情報源やシステムとリンクされ、利用されるようになったとしたら、その人がいつどこでどんな買い物をしたかなど、さまざまな個人情報が『記録』されることになる▼もちろん、情報の管理には万全の注意が払われることは間違いないだろう。しかし、いったんこれらの情報が何らかの理由で漏れてしまったとしたらどうだろうか。たとえば、他人に成りすますことも容易にできてしまうだろう。さらに、ある特定の条件に当てはまる人たちを優遇したり、排除したりといったことも簡単にできてしまうのではないだろうか▼『また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。』(ヨハネの黙示緑13章16〜17節)▼1900年以上のむかしに書かれた聖書のこの言葉も、当時では、かならずしもその意味するところが充分には理解されなかったかもしれない。しかし、現代のわたしたちにとっては、まさに身に降りかかろうとしていることとして受け止めることができるのではないだろうか▼聖書はつづけてこう言っている。『ここに、知恵が必要である。』 (ヨハネの黙示緑13章18節)▼さて、あなたはどこから知恵を得ることができるだろうか。これを機会に聖書をひもといてみてはいかがだろうか。


(Vol.11 - 1999.05.29)

くに『国民総背番号制』ともいわれる法律が導入されようとしている。国民ひとりひとりに番号を振って、その番号で個人の住所や名前などを管理しようというものである▼あらゆる情報がコンピュータで管理されている現代においては、住民情報も全国で統一した番号によって管理しようという考えは、非常に合理的に思えるし、実際に住民票が全国どこにいても取得できるなど、そのメリットも数多く考えられる▼しかし、この法律にある種の抵抗や違和感を感じている人も決して少なくないようだ。それは、自分が番号で管理されることの味気なさを感じるのに加えて、いわゆるプライバシーの保護が充分になされないのではないかという危惧を抱いているからであろう▼人はみなだれでも生まれたときに、新しい名前が与えられる。それは、単に、個人を特定するためのものとしてだけではない。そこには、さまざまな願いや期待、そして愛情が込められている▼聖書に『神の名』という意味の名前をもつ人が登場する。この人の母ハンナは、望んでいたにもかかわらず、長いあいだ子供に恵まれなかった。そこで、彼女は、『神の名』を呼び求めて、子供が与えられるようにと祈りをささげた。そして、その結果与えられた子供に『サムエル』すなわち『神の名』という名前をつけた。このサムエルは、のちに預言者として、イスラエルの国を指導し、神の言葉を人々に伝える働きをするようになった▼さて、あなたの名前にはいったいどんな思いが込められているのだろうか。わたしたちひとりびとりに『番号』ではなく『名前』が与えられているということは、それぞれの人生がかけがえのないものであるということを思い起こさせてくれるのではないだろうか。


(Vol.10 - 1999.05.15)

20世紀も残りわずかとなってきた。この世紀を一言で表すとすれば、科学の世紀であったということができるのではないだろうか。この100年間の科学技術の進歩には目をみはるものがある▼航空機の発明と発達によって、地球は本当に狭いものとなった。アメリカ日帰り旅行も、そう遠くないうちに現実のものとなるかもしれない。いや、地球から飛び出して、宇宙旅行を楽しむことも、いまや夢物語ではなくなったきた。また、コンピュータの発達と普及は、だれもが、世界中のあらゆる情報を瞬時に得ることができる道を開いたし、バイオ技術の進歩は、クローンといういわば動物の複製を生み出すまでにいたっている▼しかし、これらの進歩と発達は、かならずしも私たちに良い物だけを与えてくれるわけではなく、ときには、不幸と苦難をもたらすこともある▼世界中でいま一番心配されていることのひとつに、いわゆる2000年問題というのがある。2000年になるとコンピュータが誤作動を起こし、予期せぬ事態が起こるのではないかと、いうあれである。そのために、今年末から来年初にかけては飛行機に乗らないとか、あるいは、いまのうちに預金をすべて引き出しておこう、などといったことが真剣に議論されている▼しかし、実は、この『コンピュータが誤作動を起こす』という言い方は正しい言い方ではない。コンピュータは、どんな場合でも人間の指示どおりに必ず動作する。しょせん計算機にしかすぎないコンピュータが、自分勝手に誤作動するはずがない。われわれが誤作動といっている動きも、コンピュータにしてみれば指示されたどおりに、まったく正直に動いているにすぎないのである。要するに人間の『指示』が間違っているわけである▼旧約聖書のなかの創世記 11章に『バベルの塔』という名で知られている話がある。悪に染まった人々をみた神が、大洪水によって世界を滅ぼされた後、人々は、もう二度と洪水で滅ぼすことはないという神の言葉を信じずに、自分たちの力でそれから逃れるために、天にまで届こうとする高い塔を建てようとした。いわば、みずから神になろうとしたわけである。しかし、それをご覧になった神は、人々の言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにされたために、その塔は完成することはなかった。こうして、今日世界中には多くの言語が存在するのである▼さて、科学技術が高度に発達し、自分たちの力でなんでもできてしまうかのように思える現代の私たちに必要なことはなんであろうか。昔の人々と同じ失敗を繰り返さないようにしたいものである。


(Vol.9 - 1999.05.01)

国の高校で、生徒が校内で銃を乱射するという悲しい事件が起きた。日本では考えられないことであるが、米国では、誰もが簡単に銃を手にすることができる。小さな子供が射撃の練習をすることすらあるという▼決して初めてではないこのような悲惨な事件が起きても、なお、銃が規制されないということに、われわれ日本人の多くは疑問を感じているのではないだろうか。もっとも米国においても銃規制の運動がないわけではない。しかし、『自分の身は自分で守る』という考え方が根強いこの国では、その運動は必ずしも進展していないようだ。なかには、このような事件を再発させないためには、学校に銃を持った警察官を配備すればよいという意見さえでているらしい▼一方、欧州では、米国を中心としたNATO軍によるユーゴスラビアに対する空爆が続いており、すでに多くに犠牲者がでている。もちろんこの空爆の背景には、伝えられるところによると、ユーゴスラビアによるアルバニア系住民に対する弾圧などの問題があり、その是非を簡単に論ずることはできない。また、先の銃乱射事件とは性格を異にする問題であるかもしれない。しかし、この二つの出来事の底辺には、共通するひとつの考え方があるように思える。それは、力には力をもって対抗しようというものである▼「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」(マタイによる福音書5章38-39節)▼イエス・キリストのこの言葉は、悪に対してなされるがままに無抵抗でいることを勧めているようにも聞こえる。しかし、それに続く、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイによる福音書5章44節)という言葉とを合わせたて考えたときに、この教えの真の意味を知ることができるのではないだろうか。そして、私たちひとりひとりが、この教えを心にとめることで、悲しい事件をなくしていくことができるのではないだろうか。


(Vol.8 - 1999.04.17)

月になり、ピカピカのランドセルを背負って学校に通う子供たちの姿を見かける。我が家にもこの春、新一年生になった息子がいる。少しお兄さんになった喜びと自信を感じながらも、新しい世界に接する不安と緊張の毎日かもしれない▼子供でなくとも、今までとは違う社会や環境に対するときには、誰しも期待と同時にすくなからず心に不安をいだくものである。そんな時に、新しい仲間から声をかけてもらうことほど、ほっとさせられることはないのではないだろうか。「おはよう」のひとことが、どれほど心を落ち着かせ、安心感を与えてくれるかわからない。実際、新一年生たちが最初に習うことは、まずあいさつすることである▼ある新聞にこんな記事が載っていた。南フランスでは、店の人と客が必ず明るくあいさつするそうである。スーパーでレジに行けばまず「ボンジュール」、会計が終わると「メルシー、オ・ルボアール(ありがとう、さようなら)」と言い合うそうだ。ところが日本ではどうかというと「いらっしゃいませ」「三百七十八円です」「毎度ありがとうございます」。結局こちらは最後まで無言である。この「いらっしゃいませ」というのが曲者だ。「はい、来ました」ではどうもおかしい、というわけである▼国がかわれば、あいさつもまたさまざまである。へブル語では「シャローム」というあいさつが交わされる。「神様の平安がありますように」という意味である。伝道者パウロが書いた、新約聖書に収められている多くの手紙も、かならずはじめに「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」(コリント人への第一の手紙1:3)というあいさつが述べられている▼互いに神様の平安を祈りあうというのも、なかなかすばらしいあいさつだ。自分の力にはかぎりがあり、あなたにしてあげられないことがあるかもしれないが、でもきっと神様があなたのことを守ってくださる、という信仰にもとづいたあいさつである。わたしたちも、言葉は違っていてもそんな思いを心にいだきながらあいさつを交わすことができたならほんとにすばらしいと思う。


(Vol.7 - 1999.04.03)

日、ちまたには「愛」という言葉があふれている。テレビをつければ、人気俳優が出演する「恋愛」ドラマが人気を博し、雑誌などでも「愛」をテーマにした特集が売れ行きを伸ばしているようだ▼しかし、それとはうらはらに、『多くの人の愛が冷え』ている出来事が多く見うけられる。(マタイによる福音書24章12節)人々は本当は「愛情」に餓えているために、「愛」という言葉にひかれるのか、あるいは、その反対に、あまりに「愛」という言葉が氾濫しているために、人々の愛が冷えてしまっているのか▼『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』(マタイによる福音書22章39節)との言葉は、イエス・キリストが、旧約聖書の中からもっとも大切な教えのひとつであると言われたものである。友人・知人、家族はもちろんのこと、自分の周りにいるすべての人を、まるで自分自身を愛するのとおなじように愛しなさいと言われている▼ところがである。この自分を愛するということが、今の多くの人が忘れていることなのではないだろうか。真の意味で自分を愛するとは、決して自分の思いのままに生きることではなく、ましてや、自分の欲求を満たすために他人を傷つける事などではないはずだ。そうではなく、自分自身の存在意義と価値を認識し、自らのからだと心を大切にし、与えられた環境の中で最善を尽くして生きることなのではないのだろうか。自分を愛することができない者にとって、他人を愛することなどできるであろうか▼じつはイエス・キリストのこの教えには、もうひとつそれに先立つ大切な言葉がある。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。(マタイによる福音書22章37節)自分を愛することの秘訣は、自分を創って下さり、だれよりも自分のことをよく知り、そして愛してくださっている神を知り、そして愛することにあるのではないだろうか。


(Vol.6 - 1999.03.20)

によせて思うこと▼春は雨の多い季節である。ひと雨ごとに暖かくなり、いつしか冬から春へと変わっていく▼こどもの頃、いったい、いつまでが冬でいつからが春なのだろう、と考えたことがある。昨日までは冬で、今日からは春という日はいつなんだろうかと。でも、これはだれにも答えられない質問であろう。季節は『いつのまにか』春になっているのである▼人の歩みもまたこれと同じであるかもしれない。昨日までの自分と今日の自分では、それほど何も変わっていないように思える。相変らず同じような生活を送っているにすぎないように感じられるかもしれない。でも、冬がいつまでも続くことが決してないように、そして、必ず春がやってくるように、人もまた、日々、自分でも気づかないうちに成長していくことができるのではないだろうか。▼イエス・キリストは、その弟子たちにこのように祈るようにと教えた。『天にいますわれらの父よ、・・・わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。』(マタイによる福音書6章11節)そして、こうも教えられた。『あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。』(マタイによる福音書6章34節)▼これらの言葉は、自分の歩みを天の神様にゆだねながら、今日という一日を、精いっぱいに過ごしなさい、ということを教えている▼そして、その一日一日の積み重ねが、結果としてその人を冬から春へと導いていくのではないかと思う。


(Vol.5 - 1999.03.06)

武洋匡(おとたけひろただ)さんが著した『五体不満足』という本がベストセラーとなっている。乙武さんは、先天性四肢切断という障害のために生まれながらにして両手両足がなかった。しかし、この障害を単なる「身体的特徴」と考えて、これまでごくあたりまえのように普通教育を受け、そして、今は早稲田大学の学生として、やはりごくふつうの22歳を楽しんでいる。▼本書のあとがきにこう記されている。『ボクは、五体不満足な子として生まれた。不満足どころか、五体のうち四体までがない。けれども、多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に何ひとつ不満はない。ボクは声を大にして言いたい。「障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ」。健常者として生まれても、ふさぎ込んだ暗い人生を送る人もいる。そうかと思えば、手も足もないのに、ノー天気に生きている人間もいる。関係ないのだ、障害なんて。』▼今からおよそ2000年前のユダヤにもひとりの障害を持った人がいた。彼は生まれながらにして目が見えなかったのである。そのそばをイエス・キリストとその弟子たちとが通りかかったとき、弟子の一人がイエスにこう尋ねた。『「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。」イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。・・・」』(ヨハネによる福音書9章2節〜3節)こう言って、イエスはその盲人をおいやしになった。▼この世の中には自分と同じ人は誰ひとりとしていない。みなそれぞれに特徴があり、また、それぞれにおかれた境遇も異なっている。そして、なかには、あまりうれしくないと感じる「違い」もあるかもしれない。しかし、それを他人と比較して嘆くこともできれば、喜んで受け入れることもできる。乙武さんは、その後者のひとりであろう。聖書の中の話も、じつはその「違い」がすべて神様からその人への「贈り物」であることを教えている。▼自分自身をありのままで受け入れることができたならば、おのずと日々の生き方も変わってくるのではないだろうか。さらには、他人のことを見る目も変わってくるに違いない。障害を持つ人、あるいは、一般的に社会で弱者や少数派と言われている人、そして、そうでない人も、皆ひとしく、神様の前では尊い存在なのである。


(Vol.4 - 1999.02.20)

日、わたしの友人のところに赤ちゃんが生まれた。まだ、お目にかかっていないが、新しく父親となったその友人いわくは、なんだか人形みたいな感じだがとてもかわいいらしい▼生まれてきた赤ちゃん本人にはまだ何も聞くことはできないが、もう少しお母さんのお腹の中にいたかったなぁ、と思っているかもしれない。あるいは、ずいぶんと騒々しい世界に出てきて、ちょっと驚いているかもしれない▼この新しい赤ちゃんもそうであるように、あたりまえのことではあるが、だれひとりとして自分の意思で生まれてきた人はいない。自分の生まれる時や場所、国、家庭、あるいは環境などを選ぶことはできない。『うまれる』ということばそのものも、そのことが受身であることを示唆している。『生まれる』ことは本来『産まれる』ことなのだ。英語でも同じく受身形で『I was born.』と言い表わす▼それぞれの生まれてきた境遇を単なる偶然だと考えてしまうことは簡単だ。いや、生まれてきたことそのことでさえも偶然と言ってしまえばそれまでだ。しかし、そこに何らかの意味を見いだすことができたならば、言いかえるならば、人の知恵を超えたところの何か大きな計画のなかにあって自分が生まれてきたということを知ることができたならば、おのずとその『生き方』も変わってくるのではないだろうか▼『生きる』ということばは決して受身ではないということも大切なことかもしれない。


(Vol.3 - 1999.02.06)

月3日は節分である。文字どおり季節の分かれ目で翌4日は立春であるから、まだまだ寒い日が続くものの、暦のうえではもう春である。そう思って気をつけてみると、公園の桜の木々たちも芽をふくらませ、その日のために準備万端といった感じである▼春といえば、種まきの季節でもある。多くの収穫をのぞみたければ、まずはよく土地を耕さなければならない。聖書の中にこんなたとえ話がある▼ある農夫が、種をまくために畑に出ていった。まいているうちに、ある種は道端に、ある種は石地に、ある種はいばらの地に、そしてある種はよく耕された良い地に落ちた。道端に落ちた種は、しばらくすると鳥がきて食べてしまった。石地に落ちた種は、すぐに芽を出したが根を伸ばすことができなかったので枯れてしまった。いばらの地に落ちた種は、それらのいばらにふさがれて伸びることができなかった。良い地に落ちた種は、立派に生長して多くの実を結んだ▼このたとえ話は、同じ種をまいてもそれを受ける土地の状態によって、その結果がまったく異なってくることを示しており、そして、それと同じように、われわれ人間も、同じ教えを受けたり同じ経験をしても、それを聞く側の心の状態や受け止め方によっては、何の益にならないこともあれば、多くの良い結果をもたらすこともある、ということを教えている▼この春、あなたにはどんな種がまかれるだろうか。まずは、しっかりと心を耕しておきたいものだ。そして、実り多き収穫のときを楽しみに待ちたいと思う。


(Vol.2 - 1999.01.16)

999年が始まった。9が三つも並ぶと、いやがおうにもいよいよ世紀末だなぁと感じさせられる▼新しい年が始まると、いろいろと新しいことも始まるようだ。ヨーロッパでは、この1月1日から『ユーロ』という新しい通貨が誕生した。実際に『ユーロ紙幣』が世の中に出まわるのは2002年からということではあるが、小切手やカードによる支払い等ではこの『ユーロ』が使えるそうだ。これで、隣の国へ行っても両替をすることなく買い物ができるようになるわけである。まさに民族・文化・言語を越えて、ヨーロッパは1つの国になろうとしている▼旧約聖書の中にこんな話がある。紀元前604年に、当時、ヨーロッパを広く支配していたバビロンという国のネブカデネザル王がひとつの夢を見た。その夢は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土でできた非常に大きな像が立っているというものであった。そして、この夢の意味をひとりのユダヤ人青年が王の前で解き明かした。『あなたは、あの金の頭です。あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って。全世界を治めるようになります。第四の国は鉄のように強いでしょう。足の一部が鉄、一部が粘土であったように、これらは相合っすることはありません。』▼はたして、歴史はその通りとなり、バビロンが亡んだ後に銀の国であるメドペルシャが起こり、つづいて青銅の国であるギリシャ、鉄の国ローマがヨーロッパ世界を征服することになる。その後、ナポレオンやヒトラーが世界統一をもくろむが、粘土と鉄が混じり合うことがないようにいずれもその野望を果たすことはなかった▼さて、これから先、世界はどうなっていくのか。多くの人が考えているように、『ユーロ』をもとにヨーロッパは統一されていくのか。それとも、聖書が述べているように、いつまでも、粘土と鉄は相合っすることがないのか。あなたはどう思いますか▼実は、聖書の話にはまだ続きがある。『一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。』


(Vol.1 - 1998.11.20)

本人女性初の宇宙飛行士である向井千秋(むかいちあき)さんが、スペースシャトルでの2度目の宇宙飛行から無事、地球に還ってきた。ひとむかしから考えれば、宇宙への旅もずいぶんと簡単に行けるようになったものだとあらためて感じさせられる▼先だってもある清涼飲料水メーカーが、抽選で消費者へ宇宙旅行をプレゼントするというキャンペーンを実施していたが、一般市民が宇宙に行ける日もそう遠くはないようだ▼このように技術の進歩を目の当たりにした時、人間の持つ知恵と可能性が偉大なものであることを知ることができる。しかし、その一方で、宇宙を身近に感じるようになった時、われわれ人間の住む地球が無限に広がる大宇宙の中ではいかにちっぽけな存在であるかということも思い起こさずにはいられない。まして、その中に生きるひとりの人間の存在など、宇宙から見ればまさに無にひとしいということも事実である▼もし、わたしという人間の存在が、進化論の言うように偶然の結果としてのものであるなら、どんな理屈を考えてみても、本質的に人間の存在意義を説明することは難しい。しかし、聖書に書かれているように神が目的を持って人間を創られたと考えたならば、無に等しいように思えるような人間の存在にも、確かな意義と価値を見出すことができる▼「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(旧約聖書 創世記 第二章7節)




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